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1920年代の農村社会と学校教育(教育の境界研究会7月例会/土屋尚子氏報告)

同研究会の例会にて、土屋氏からの報告およびディスカッションが行われました。氏の問題提起は以下のとおりです。
『明治初期の学校制度創設以来、農村では学校教育が「厭農」につながるものとして敬遠される風潮が残っていました。しかし、第一次世界大戦から1920年代にかけて村における学校教育の意味は大きく変わっていくことになります。初等義務教育の中退者が減少し、卒業後の進路として中等学校への進学を希望する子どもが徐々に増えていくなど、この時期の農村の教育水準が上昇していくことが多くの先行研究によって明らかにされています。
今回の報告では、これらの先行研究を整理したうえで、農村にとって学校教育の持つ意味とは何か、参加者の皆様と一緒に考えていくことができればと思っています。』
都市と農村とは、それぞれの特性に応じた地域づくりが行われるべきですが、わが国では永年、都市と地方との格差が問題視されています。その発端は、封建社会から近代社会に移行する際の全国一律的な社会改革とそれに対した既存コミュニティの選択した方向性に要因があるのではとの問題意識があり、その疑問に何らかの示唆を期待し参加しました。研究会に参加した感想を以下のように列記します。(kmy)
●明治になり、都市部の消費生活の拡大に対して農村部は発展から取り残された(すべての農村部ではなく、むしろそのような世論が形成された)。そんな中、若者の間に都市に対する憧れが広がった。農村側では、全国一律に持ち込まれた教育制度が、都市の情報を農村にもたらしたこと、特に女性が結婚相手を都市部の男性に求めるようになったことに対する反発が起こった。以上が、「農村における都市への憧れと反発(土屋氏レジメより)」である。
●明治の近代化は、都市部での急激な浸透に反して、農村部では小作制度に象徴される封建社会が残った矛盾を抱えていた。農村部では地主層と小作層の異なった社会への指向性が、求める教育像の違いとして現れた。
●1920年代は、農村部がこうした教育への反発期を乗り越え、教育制度の受け入れを契機に、地域社会を再構築した時期にあたる。学区制の導入により、地域コミュニティの範囲に変化が生じた(学区制に反発し、旧村ごとに独自に小規模な学校を設置するところもあった)ことがその代表的事象である。
●リテラシー能力の問題からの士族階級出身者の採用等、教師という人材への反発があったとしても、農村における教師の役割は、「閉じた社会」における情報チャンネルとして重要であった。この視点からの分析は、外部から持ち込まれた学校というシステムおよび象徴を契機に農村が自らの文化を自治的に建設していった過程を明らかにできるのではとの発言があり、共感しました。
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